どうも、たかやです。
先日、ニュースを見ていた時に、市内の最高齢としておばあさんが紹介されていました。
明治生まれで100歳を超えていたのですが、寝たきりというわけではなく、車椅子に乗っており、しゃべる事も出来ていました。
ただ、その様子を見ている中で抱いたのが、そうまでして生きていたくはないな、という感想です。
車椅子生活なので、自分の足では自由に歩き回る事も出来ず、人に押してもらわなければ移動もままならない。
ご飯は、自分で箸やスプーンを持てないので、介助者に食事の世話をしてもらい。
トイレは連れて行ってもらった上に、用を足すのもひとりでは出来ず。
着替えだって自分では着るのも脱ぐのも不可能。
言い方は悪いですが、全ては他人任せ他人頼りです。
『生きている』というより、『生かされている』ようにしか見えません。
果たして自分だったらそれで良いのか?
そこまでして生きていたいのか、自分は?
などと考えてしまったわけですね。
もちろん、これは私の独りよがりな考えです。
おそらくおばあさん自身は長生きを願っているのでしょう。
もしかしたら子どもや孫など、親類縁者は生きていてほしいと願っているかもしれません。
そこを否定する事は誰にも出来ませんから。
そもそも、私はそこまで長生き出来るとも思えません。
独り身なので、寿命は平均を下回る可能性の方が高いでしょうし。
さらに、何十年と介護してもらえるだけのお金もありませんしね。
自分の身体が健在な内に、呆気なくぽっくりと逝ければそれが1番なのでしょうが、こればかりは誰にも分かりません。
もしもボケたまま死ねば、死の苦しみから逃れられる可能性だってあるのかもしれませんし、ないのかもしれません。
医療が今以上に発展していけば、もしかしたらが起きてしまう事だってあるでしょう。
とは言え、いつまでも死なないわけでも衰えないわけでもないので、自分の限界を自分で決められるのならば、それはアリなのかも、と考えてしまいます。
ちなみに、私の親は「認知症になったり、寝たきりになってまで生きていたくはない」とは言っています。
自分が自分でなくなってまで、誰かの世話になったり迷惑をかけてまで生にしがみつきたくないそうです。
潔くそう口に出来るのは良いのですが、かと言って認知症や寝たきりになった時に、残された人間が「はいそうですか」と頷けるかはまた別問題なのかもしれません。
出来るだけ健康に長生きしたいものです。
だって、本が読めなくなるのは嫌ですから。